応用化学科昭和37(1962)年卒 我楽多会 卒業63周年全国大会
日時:令和7(2025)年4月17日(木)~19日(土)
場所:長野県諏訪市 上諏訪温泉「浜の湯」
参加者:井上*・植木*・大前・岡*・久保田・薦田・後藤*・周々木*・田口・(谷口)・辻*・戸嶋・富永*・藤原・松島・三木*・[山地]・山本・吉岡*
(無印: 2泊、*: 18日泊のみ、[ ]: 17日泊のみ、( ): 宴会のみ日帰り)(全19名。宴会参加者18名)。
我楽多会:昭和37年卒業の同窓会は、関東・関西でそれぞれ年に数回の集いを持ち、3年に1度、地方の温泉で泊りがけの全国大会を開いてきた。前回はコロナ禍の影響で2年遅れの2023年に関西の世話で豊橋のホテルでの開催だった。これで最後という意見もあったが、継続希望があり、関東の世話で2025年開催が決まった。
今回は以下のようなプログラムで開かれた。宴会前日の4月17日午後から18日の正午までが東西対抗の田口杯囲碁大会。全員集合は18日午後5時。午後5時50分から記念写真撮影、続いて午後6時から宴会。午後8時から場所を替えて二次会。翌19日午前は有志による高島城および諏訪湖畔散策。

八重垣姫の像と石碑の前の囲碁会員(写真1)
17日午後2時からの東西対抗囲碁大会は西の勝ち。責任感強く無理して参加した東主将は体調悪化、翌朝帰宅。個人優勝は久保田さん。表彰式を宿のホールの大屏風の前で、打ち上げを老舗そば処八洲(創業大正11)で実施。食後、満開の桜を見、諏訪湖にまつわる「本朝廿四考 八重垣姫 狐火の巻」の秘話など話しながら、湖畔を散策(写真1)。囲碁大会は今回が最後で、田口杯は久保田さんが取りきりとなった。

宴会前の記念集合写真(写真2)
18日の宴会参加者は18人。写真2の宴会前の記念写真には、遅刻者がいて17名。宿泊者も、日帰りが1人いて17名。開宴後間もなく出席者全員が1人3分で近況報告を行った。今回は岡さんの世話で、予め欠席者を含めて全員に近況報告と写真の提供を依頼。28名からの返信をまとめてA4版23頁の冊子とし、出席者に配布した。各自の挨拶は、この冊子の引用でスムーズに進んだ。二次会は会場を変え、4、5人で小卓を囲んでグループでの歓談。一次会・二次会を通して、昔の思い出話から、登山やテニス・旅行など趣味に纏わる話題、病気の話、終活の話、老化のこと等など、話題は多岐に亘った。2時間の二次会も終わりに近くなって、遅刻者が到着し、丁度長野で発生した地震による列車遅延などの話が披露された。
驚いたことに、翌19日朝6時に全館の電灯が消え非常灯に切り替わった。宿の電灯系統のみ停電で、エレベーター、水道は使えた。7時半からの朝食も予定通りだが、非常灯だけの薄暗い食堂での食事となった。更にパソコンが使えず、宿の清算ができなかった。一部の人は早々に宿を出て、諏訪大社などそれぞれの目的地に向かった。9時頃になって清算が済み、有志10人が高島城に向かった。歩いて20分。足の悪い人は自家用車で来た松島さんが送ってくれた。

諏訪高島城と満開の桜の下で(写真3)
高島城は諏訪の桜の名所。幸いなことに今年は満開期間が長く、大木のソメイヨシノ、ヤマザクラ、カンヒザクラ、シダレザクラ、ヤエザクラなど、満開の桜を堪能した。城をバックに桜の木の下で記念写真(写真3)。高島城は、築城の名手、日根野織部正高吉が7年かけて築城し慶長3年(1598)に完成した城で、かつて諏訪湖と川に囲まれて「諏訪の浮城」と呼ばれた。慶長6年に諏訪頼水が旧領諏訪に戻って領主となり、明治まで10代の領主が使った。昭和45年(1970)に復興された天守閣に登り、満開の桜を上からも愛でることができた。
城から諏訪湖畔に向う途中の衣が崎弁財天に寄る。石碑に西行法師が全国遊行の途次に諏訪湖を詠じて以来「衣ヶ崎の富士」として一躍全国に有名になったとある。湖畔公園でD51型蒸気機関車や八重垣姫像、そして隣接する片倉館(国指定重要文化財)などを見ながら宿に戻り、昼前に2年後の再会を祈って解散した。
今回多くのアクシデントにもかかわらず、盛会裏に大会を終え、近況集冊子の完成、名簿の更新なども出来た。幹事を引き受けてくれた関東の会員(岡・山本・井上・松島・山地の皆さん)のお陰である。深謝する。
(戸嶋 記)